東京地方裁判所 昭和36年(刑わ)193号 判決 1962年10月16日
判 決
出版業
石井恭二
著述業
龍彦こと
渋沢龍雄
右の被告人両名に対する猥褻文書販売同所持被告事件について、当裁判所は、検察官水野昇出席のうえ審理を遂げ、次のように判決する。
主文
被告人両名はいずれも無罪。
(本件公訴事実)
本件公訴事実は、「被告人石井恭二は、昭和三五年一月末ころまでは東京都千代田区九段四丁目六番地に、同年二月からは同都同区西神田二丁目一九番地に営業所を設け、『現代思潮社』なる名称で出版業を営んでいるもの、被告人渋沢龍雄は、フランス作家マルキ・ド・サドの著作に関する翻訳その他評論等の著述に従事しているものであるところ、被告人石井は、マルキ・ド・サドの著作である『悪徳の栄え』を上・下二巻に分冊して翻訳出版することを思いたち、被告人渋沢にその著作を約三分の一程度に縮少して翻訳することを依頼したところ、被告人渋沢は、その依頼により右程度に縮少した日本語訳を上下に分けて順次完成し、被告人石井に交付したので、同被告人は、その翻訳を各通読して、上巻部分は『悪徳の栄え』という表題で昭和三四年六月ころ、下巻部分は『悪徳の栄え』(続)ジユリエツトの遍歴―」という表題で同年一二月一六日ごろ、それぞれ単行本として出版した。ところで、その下巻にあたる『悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―』は、たとえば、その(一)四八頁三行目から五一頁一二行目まで、(二)七六頁七行目から七七頁一六行目まで、(三)八八頁一五行目から八九頁九行目まで、(四)一一三頁七行目から一一五頁一八行目まで、(五)一一九頁二行目から同頁一八行目まで、(六)一三二頁六行目から一三六頁四行目まで、(七)一四八頁三行目から一五二頁四行目まで、(八)一六六頁一四行目から一六九頁八行目まで、(九)二三〇頁一一行目から二三二頁一一行目まで、(一〇)二四〇頁五行目から二四一頁一七行目まで、(一一)二七七頁一一行目から二八〇頁六行目まで、(一二)三〇六頁一六行目から三〇八頁一三行目まで、(一三)三三五頁六行目から三三七頁一一行目まで、(一四)三五一頁七行目から三五五頁八行目まで等に、性交、性戯に関する露骨にして具体的かつ詳細な描写記述を含んでいる猥褻文書であるが、被告人石井は、これを昭和三四年一二月一六日ごろから翌三五年四月上旬ごろまでの間、東京出版販売株式会社等を通じて、多数の読者に対し約一五〇〇冊を販売するとともに、同三五年四月七日前記東京都千代田区西神田二丁目一九番地の営業所等において、販売するため二九一冊を保管した。以上のように、被告人両名は、共謀のうえ『悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―』という猥褻文書を販売し、かつ販売の目的で所持したものである。」というものであり、被告人等の右所為は、刑法第一七五条に該当するというものである。
当裁判所において取り調べた証拠によれば、右公訴事実のうち、『悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―』と題する単行本(以下単に「本件訳書」という。)が、刑法第一七五条にいう「猥褻ノ文書」に該当するかどうかの点を除く、その余の事実は、概ねこれを認めることができるのであるが、以下猥褻文書の意味、要件、判断基準等の諸点につき、本件訳書の猥褻性を判断するに必要な限度で順次当裁判所の見解を明らかにするとともに被告人等の本件所為が、いずれも罪とならない理由を説明する。
(猥褻性についての当裁判所の判断)
一、刑法第一七五条にいわゆる「猥褻ノ文書」が、いかなるものをいうかは、法の規定自体からは必ずしも明らかではないが、昭和三二年三月一三日のいわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判所大法廷の判決は、従来の大審院および最高裁判所の判例を受け継ぎ、「その内容が、徒らに性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義し、さらに猥褻文書たるためには、「羞恥心を害することと、性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される」として三箇の要素を掲げている(最高裁判所刑事判例集一一巻三号九九七頁)のであるが、当裁判所もまたこの判決の示した猥褻文書の概念は、正当として維持すべきものと考える。
(一) これら三箇の要素は、相互に密接な関係を有し、一箇の要件を充足するものは、同時に他の要件をも充足しているのが通常であるが、さりとて単に同一の実体を三個の側面から表現したにすぎないものではなく、猥褻文書たるためには、三箇の要件をともに充足することが必要であつて、その一つを欠くものがあれば、これをもつて猥褻文書とすることはできない。このことは、一般の刑罰法規の解釈と異るものではない。
(二) ところで、右最高裁判所判決の掲げる要件のうち、第一の「性的羞恥心を害すること」および第三の「善良な性的道義観念に反すること」については、普通人の正常なそれを基準として判断すべきことは判文上明白であるが、第二の「徒らに性欲を刺戟興奮させる」点について、何人のそれを基準として判断すべきかは判文上明確ではない。しかし、刑法第一七五条が一般社会の性秩序ないし健全な性的風俗を保護法益としている点から考えれば、前二者と同じくこれを普通人の正常なそれに求むべきことは疑いないところである。元来ある種の文書、たとえば小説その他の作品を読者がどのように味わい、それからどのような影響を受けるかは、読者の能力、環境、態度その他によつて著るしい個人差があることは当然のことであつて、性的描写が一般読者に与える性的刺戟や羞恥心の如きも、読者の年令、性別、教養、経験、生活環境の差異によつて、一律に決し難いところであるが、一般社会において、普通人の全部ないし大部分が、ほぼ同様の程度に受け取る性的刺戟および羞恥心の存することも否定できないところであるから、ある作品が徒らに性欲を興奮刺戟するものであるかどうかは、かような普通人のそれを基準として判断すべきものと考える。それゆえ、一般社会には、ささいな性的刺戟にも敏感な反応を示す年令の低い未成年者や性的に腐敗しやすい傾向のある成人もあれば、反対に道徳的に極端に潔癖な人もあり、また通常の性的刺戟に対しても格別の反応を示さないような人もあることは、いうまでもないが、かかる特殊な人の受ける性的刺戟の程度を基準として判断することはできない。またこれを別の観点からみれば医学書や科学書の如く専門家のみを対象としたり、あるいは青少年またはことさら低俗な読者を対象としたと認められる出版物の如く、文書のもつ客観的な性質、内容から読者層が明らかに限定され、そのため当該文書を読むことのないような階層を除外して判断することが、相当な場合もないとはいえないが、かような特殊な文書でない一般普及を目的とした文芸作品等にあつては、一定の読者層、たとえば知識層のみに限定し、これを基準として普通人の範囲を定めることは相当でなく、また青少年によつて読まれた場合の悪影響のみを基準として考慮することも相当ではないのであつて、ひろく社会一般の通常の読者を基準として考えるべきである。この場合当該文書が現実にいかなる範囲の読者によつて読まれたかを、一定の資料に基いて参酌することは有益であるが、これに限定すべき理由はない。したがつて、当該の文書の置かれた具体的な状況によつて猥褻性を判断すべしとする、いわゆる相対的猥褻概念に立脚し、その作品の刊行目的、刊行部数、定価、広告その他販売の方法によつて、その作品を読むであろうことが客観的に予想される読者を基準として考えるべきであるとし、本件訳書は、右の諸条件を考慮し、いわゆる知識層の範囲から普通人を求めるべきであるとの弁護人の主張は、多くの傾聴すべき点を含むが、本件訳書は、前述の如く一般普及を目的とした文芸作品であり、これを領置してある『悪徳の栄え』正篇の読者カード三六〇枚および続篇の読者カード四〇枚(昭和三六年押第一五三七号の一〇四および一〇五)についてみても、読者の職業は、学生、公務員、医師、会社員、商業その他の職業、無職など広汎に亘り、その年令も一九才から五九才までのひろい世代に及んでいるばかりでなく、『悪徳の栄え』、正篇および本件訳書の読者から抽出された弁護人申請の証人によつても、学生、医師、教員、会社役員、工員、私塾経営者、家庭の主婦であり、年令も二一才から六六才に及んで右の読者カードと外延は、ほぼ一致しており、『悪徳の栄え』正篇および本件訳書の読者がひろく社会一般の各層に亘つていることが明らかであり、しかも右の読者カードの回答率は、売上総部数のわずか四パーセントという低率のものであるから、これをもつて本件訳書の読者層をいわゆる知識層にのみ限定する根拠とはなし難く、弁護人の主張は採用することはできない。
(三) 一般社会の普通人にとつて、いかなる文書が徒らに性欲を刺戟、興奮せしめるものであるかは、当該文書の具体的な内容を客観的に考察し、社会通念にしたがつて判断すべきである。前記最高裁判所の判例は、いかなる社会においても認められ、また一般に守られている性行為非公然性の原則に反する内容をもつて標準としているものであるが、この原則の本来有する意義は、いうまでもなく、人間は性交その他の性的行為を公然行うべきではないとの原則であつて、この原則は、性に関する社会通念が一時代前にくらべ、著るしく変化し、性の解放がさけばれ、往昔存在していたタブーが漸次撤廃されつつあるにもかかわらず、超ゆべからざる限界として、今日もなお厳然として存在する。これが人間の自然的本質によるものか、歴史的所産であるかについては議論の存するところであろうが、現代の文明社会において、この原則の普遍妥当性を否定するものはないであろう。そして、もしこの原則に反する行為が行われれば、普通人たる者は、何人といえども性欲を過度に刺戟興奮せしめられ、性的羞恥心を害せられるであろうことは疑う余地のないところである。また現実に性的行為を公然行うものではないにせよ、これと同一の効果を生ずるおそれのある内容の文書は、それが文書たるの性質上、現代および次代の社会一般人によつてひろく読まれるべきものであるから、性に関する社会秩序を侵害する程度は、性行為が公然行われる場合に比し勝るとも劣らないものというべきである。それゆえ、かような内容の文書を公表すべきでないことも健全な社会においては欠くべからざる要請のひとつである。ところで文書の記載内容がいかなる場合に性的行為を公然行つたと同一の効果を生ずるおそれがあるかについて、一般的に言えば、作中の人物等の性交、その姿態、性交の前後に接着する性的行為これらに関連して発せられる言語や音声の表現、行為者の抱く感情や感覚の表現、性器の状態等についての露骨、詳細な描写または記述の如きものが、これにあたるといえるであろう。しかしながら、文書の一部に、かような記載があるからといつて、他の一切の条件の有無にかかわらず、当然にこれが猥褻文書であると解すべきではない。性的行為が公然実行された場合には、社会の一般人は、これからはほぼ同様な程度の性的刺戟を受けるけれども、作品中における性的行為の描写は、それが、本質的に文字による表現であることからして、同一の情景の描写であつても、その表現の方法、巧拙や、性的描写の置かれている状況等によつて、読者に与える性的刺戟の程度は、劃一的ではなく、そこに強弱の差が認められるから、問題の個々の記載のみを取り上げ、これを部分的、孤立的に判断することは、文書たるの性質を無視したものといわなければならない。それゆえ、文書にあつては、現実の行為と異なり、当該描写がもつ内容との関連ないしは当該描写の作品中におかれている前後の状況などを全体として考察し、普通人をして徒らに性欲を興奮刺戟せしめるものであるかどうかを判断しなければならない。このことは、性的刺戟の程度を普通人の正常なそれを基準として判断しようとするものである以上、読者に一括して提示された作品の全体を通読しようとする正常な読書態度を基準とすべきであり、問題の性的記述のみをひろい読みしようとする読書態度を前提とするべきではないことからいつても当然である。この全体的考察は、もとより専門的知識や経験をもつ人が行うそれではなく、普通人がなす全体的考察であつて、日常の用語をもつてすればいわゆる読後感にほかならない。その結果、個々の記載のみでは、たとえ過度の性的刺戟を受けることがありえても、全体的にみて通常の性的刺戟を受けるに止まるか、全くこれを受けることがなければ、猥褻文書としての要件を欠くものといわなければならない。それは、個々の性的描写部分が持つところの性的刺戟を凌駕する他の刺戟によつて、性的刺戟が、相対的に軽減されるか、若しくは消失せしめられるからにほかならないのであつて、この場合、読者が他の刺戟によつて抱く感覚には、人間精神の高揚や情操の醇化に役立つような深い感動、高度の緊張ないし爽快感があり、反対に残忍醜悪などの不快感、さらにこれらが交錯した複雑な感覚もあるが、いずれにせよ、個々の記載が持つ過度の性的刺戟が軽減または消失することなく、読後にまで残るような文書こそ、猥褻文書というべきである。もとより性的刺戟とそれ以外の刺戟とは、これを科学的、計量的に比較しうるものではなく、一般社会人の良識、すなわち社会通念によつて判断すべきことは、いうまでもないところである。
(四) 右のように、当裁判所は、作品はこれを全体として考察し、猥褻文書にあたるかどうかを判断すべきであるという見解に立つものであるが、さりとてこのことは、作品の思想的芸術的価値の側面を別個に考察し、それとの比較考量によつて、猥褻性の存否を判断しようとするものではない。前記最高裁判所の判例も、「芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立しえないものではない」とし、「芸術的作品であるという理由からその猥褻性を否定することはできない。何となれば、芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的面において猥褻性をもつていると評価されることは不可能ではないからである。」といい、「高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない」と述べているが、当裁判所は、この判例をもつて正当とし、その見解に従うものである。しかしながら、芸術性ないし思想性は、猥褻性と全く無関係なものとはいえないのであつて、作品が芸術的、思想的であるため、一部に露骨な性的描写があつても、性的刺戟の程度を相対的に軽減し、あるいは消失させる場合のありうることは、すでに述べたとおりであり、反対に芸術的、思想的価値が高いため、かえつて性的刺戟の程度を強める結果となる場合のありうることも、これを認めなければならない。要するに、芸術性ないし思想性は、作品の猥褻性を判断する際に、利益にも、不利益にも作用するのであつて、この理は、性的刺戟以外のある種の感覚刺戟、たとえば残虐、醜悪な刺戟が猥褻性の存否に影響を及ぼす場合と異なるものではない。芸術性ないし思想性は、かような限度において、猥褻性の判断に影響するのであるが、これは作品の芸術的思想的価値を判断するものではなく、猥褻性そのものの判断にほかならないというべきである。前記最高裁判所の判例も虚心に読めば、言外にこれを認めていることは明らかである。弁護人は、右のような観点と立場を異にし、作品がすぐれた芸術的思想的価値をもつものであれば、猥褻文書の要件に形式的に該当するものであつても、これを法律上猥褻文書と目すべきではなく、本来人間の文化社会に貢献することを目的としている法が、これらの人間的な価値の優位性を否定することは、法の自己矛盾であると主張する。しかしながら、猥褻性の判断にあたり、右に述べたような限度を超えて、芸術性や思想性に優位を認めることは、現行刑法の社会秩序維持の機能を過少に評価したものといわなければならないし、今日のわが国社会一般の良識は、性に関する社会秩序や個人の性的羞恥感情を犠牲にしてまでも、芸術作品の出版を歓迎するほど寛容であるとは考えられない。もつとも、かつて猥褻文書とせられたものが、時の推移によつて、猥褻文書でないとされることはありえようけれども、これは性に関する社会通念の変化に基くもの、換言すれば、社会の良識がこれを受容するに至つた結果にほかならない。要するに、わが国の現行刑法のもとでは、作品の猥褻かどうかという側面を問題にすれば足りる。裁判所は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断する権能と職務を有するが、作品の芸術的価値の存否を判断する権能および職務を有するものではない。それゆえ、弁護人のこの点に関する主張は理由なしとして排斥するほかはない。
以上に指摘したその余の点)たとえば、表現の自由との関係)についても、当裁判所は、前記最高裁判所の判例の見解を正当として是認するものであるが、本件訳書の猥褻性判断のうえに必要でないから、はじめに一言したとおり、これらの点に関する説明は、すべて省略する。
二、そこで、前示猥褻文書の判定基準に照らして、本件訳書(昭和三六年押第一五三七号の一)を通読し、猥褻文書に該当するかどうかを判断する。
(一) 本件訳書は、変態的猟奇的性格および反権力的行動から、しばしば投獄され、遂には精神病院でその生涯を閉じたと伝えられるフランス一八世紀の作家マルキ・ド・サドの著作である『ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え』の抄訳の後半部であつて、その標題が示すように、被告人渋沢の抄訳にかかる『悪徳の栄え』正編に続く、主人公ジユリエツトのヨーロツパにおける遍歴の物語であり、彼女が、その生涯を通して悪徳と瀆神の限りを尽したがゆえに、かえつて栄耀栄華を極めるというテーマをもつ作品である。検察官が指摘する一四個所は、主人公ジユリエツトと法王、貴族、警察長官、大盗族その他さまざまな登場人物との間に奇嬌な姿態、方法による乱交、鶏姦、獣姦、口淫、同性愛等が次々とくりひろげられる性的場面であるとともに、こうした性的行為のさ中に、あるいはその前後に稀代な道具を用いる、殺人、なぶり殺し、鞭打、拷問、火あぶり、集団的殺戮等が情容赦もなく繰り返えされる残虐な場面であつて、これらの場面は、すべて作者が奔放な空想で描いた乱痴気騒ぎともいうべき情景である。そして、この一場一場の間に、原著者マルキ・ド・サドは、ジユリエツトその他の登場人物の口を通して、自然の法理とか、政治や宗教について彼一流の哲学を語るのである。それは、一八世紀ヨーロツパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとするものであつて、これが本書をして思想小説ともいわれているゆえんである。また、前記『ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え』を始めとするサドの著作が、フランス文学史の空白をうめるものとして高い評価を得つつあるのみならず、その革命思想ないしユートピア思想は、社会思想史的分野でも、また医学心理学的領域でもさらにシユールレアリズム、実存主義の如き今世紀に擡頭した芸術運動、思想運動の中でも、極めて重要な意義を認められつつあること、および『ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え』は、サドの思想を最も完全な形で現わしたものであつて、サドの研究にとつて欠くことのできないものであることは、証人(中略)のいわゆる専門家証人の証言によつて認められるところであつて、本件訳書が、人間の低俗な興味に訴えることのみを目的とする春本等とは、全然類を異にするものであることはいうまでもない。それゆえ、もし本件訳書を文学、心理学、精神医学その他の研究等に資する目的で、学者や文学者のために限定出版(単に、限定版と銘打ち、通常の価格よりも高い定価を付したというだけでは、ここにいう限定出版とはいえないこと勿論である。)に付し、それを該読者が出版の目的の範囲内で、いかように利用しようとも、もとより法律の干渉すべき筋合のものではない。問題は、性的描写を含む本件訳書を一般普及を目的として公刊することが、性に関する最少限度の社会秩序と道徳を維持しようとする法律の目的からいつて許されるかどうかに存する。
(二) 本件訳書の猥褻性を判断するにあたり、問題となるべき一、二の点を明らかにしておきたい。その一は、性に関する社会秩序が侵害された場合には、多分に性犯罪その他の反社会的行為を誘発する危険をはらんでいることは疑いないし、かかる反社会的行為の煩発は、性道徳秩序が侵害されつつある事態そのものにほかならないが、刑法第一七五条が、直接保護しようとする法益は、性に関する社会秩序、性道徳の基盤を形成している普通人の正常な性的羞恥およびその善良な性的道義観念にあるということである。それゆえ、当裁判所は、本件訳書の猥褻性について、右の法益に対する侵害の危険性を問題にするが、本件訳書中の性的行為の描写からの模倣その他によつて何らかの具体的な反社会的行為を誘発する危険があるかどうかという観点に立つて、その蓋然性や可能性を格別問題にするものではない。社会一般が共有する性的道義観念や性的羞恥心すなわち性に関する社会秩序は、社会秩序一般の重要な一環であり憲法のいう公共の福祉の一部をなすものであるからそれ自体、法の力をもつて保護するに値するものといわなければならない。そして、何が右にいう性に関する社会秩序であるかは、社会一般の良識、すなわち社会通念によつて認識しうるものであること勿論である。その二は、本件訳書に表現されたサドの思想が、現行の秩序にてらして、社会的、教育的、道徳的に有害であるとしても本件訳書の猥褻性の判断に影響がないということである。これらの思想を公表することは、憲法の保障する言論および出版の自由の完全な枠内にあり、法律上最大限に尊重されなくてはならないことは当然である。問題は、本件訳書の内容が「徒らに性欲を興奮刺戟し、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するか」どうかという点のみである。そして、ここにいう「性的道義観念に反する」とは、性行為非公然性の原則に反する具体的な描写を含むかどうかという、普遍的な最少限度の道徳に関するものをいうのであつて、姦通、近親相姦等の反道徳的、反風俗的行為自体を問題にしているものではないし、いわんや、性行為非公然性の原則に反することがらを抽象的表現をもつて唱導することさえ、猥褻の名において禁圧しようとするものでもない。現行法のもとでは、これらをテーマとする文学作品は、性行為非公然性の原則に反する具体的な描写を内容としていない限り、たとえ、反風俗的、反道徳的であつても、これを理由に処罰することはできない。それゆえ作品が、性行為非公然性の原則に反する場合にも、そこで取り扱われる姦通や近親相姦の如き反風俗的、反道徳的なテーマは、猥褻性の判断に影響を及ぼさないと解する。要するに文書が猥褻かどうかは、性行為非公然性の原則に反する具体的な内容をもつかどうか、という観点に立つてのみ判断しなければならないのである。
(三) そこで、はじめに検察官指摘の一四箇所の性的描写について逐一検討すると、これらは、いずれも同性または異性相互の間で行われる淫蕩にして放埒な性的場面の描写であつて、性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて、相当、露骨かつ具体的に描かれている。もつとも被告人渋沢は、その訳出にあたつて、性行為や性器の用語には、日常的な俗語の使用をさけ、江戸時代のものを使用するなどの注意を払い、また証人中村光夫(本名木庭一郎)の証言(第八回公判調書中の供述記載)の如く描写は、近代的な写実主義、リアリズムの小説からみると幼稚な古い手法であることは認められるけれども、単に異常な性行為の種類や単語を抽象的に列挙したというに止まるものではなく、前後の関係から大体の意味を了解しうる性器および性行為の用語を使用し、行為者の会話や受ける感覚を交え、具体的な人間の行為として描写されており、これが作者の異常奔放な想像力の産物であつて、現実の人間がこれを実行することが、およそ不可能なものであるとしても、社会一般人の性的羞恥感情を傷つけるに足りる程度の具体性と詳細さをもつて描かれているというべきである。さらに、本件訳書を全体としてみた場合、検察官指摘の一四箇所の本件訳書中に占める分量は一〇分の一程度にすぎないが、これは、本件訳書が刑法上問題とされる中心的部分の指摘にほかならず、他にも多くの性的交渉場面の描写を散見しうるのであつて、作者が、人間性の暗黒面をかような性的交渉場面を通じて表現し、また性的交渉場面の反覆が、前に述べたような作者の抱く思想観念の検証の手段にほかならないとしても、本件訳書中に登場するあらゆる人物は、すべて淫蕩な場面の展開に必要な役割を与えられており、これらの人物のさまざまな組み合せによつて、明らかに現代の性的道義観念に反する異常性行為のあらゆる形態を赤裸々に読者に提示し、本件訳書全体を淫蕩な作品たらしめていることは否定し難いところである。また、これらの性的交渉場面を一貫して流れるものが性の讃美であるか、性の侮蔑と憎悪であるかということも、読者の性的羞恥感情や性的道義観念を害するかどうかを判断する妨げとなるものではない。要するに、本件訳書を現代の社会一般の持つ良識、すなわち社会通念に照らして判断すれば、明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書というべきである。
(四) しかしながら、本件訳書は、全体が異常に大胆、卒直な性的場面の描写で貫ぬかれているにもかかわらず、一般的にその内容は、空想的、非現実的であり、その表現は、無味乾燥であつて、読者の情緒や官能に訴える要素が乏しいばかりでなく、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所もないではないが、これらは、いずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺戮など極度に残忍醜悪な場面の描写が性的場面の描写と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続し、このため、一般読者に極めて不快な刺戟を与え性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか、殆んど萎縮させられる性質のものと認められる。勿論本件訳書の作中人物は、相手に残酷な仕打を加えまたは加えられることによつて、より強い性的快楽を享受するという、いわゆる加虐性ないし被虐性々欲者に関するものであるが、その描写は、普通人である一般読者にとつては、殆んど性欲を刺戟興奮させるいとまのないほど、醜悪残忍な情景描写の連続であつて、本件訳書を通読することは、相当の精神的苦痛と忍耐を要するものといわなければならない。たとえば、本件訳書七九頁一五行目以下、二四〇頁五行目以下その他これに類する残虐な場面は無数に指摘することができる。こうした描写から一般読者の抱く不快感ないし嫌悪感は、過度の性的刺戟に対して人間がその精神的面すなわち理性から反撥を感ずるところの性的羞恥感や性的嫌悪感ではない。またその不快感は、必らずしも現代のわれわれの家庭、社会、人間関係を支配している人倫、道徳を異常な反逆精神をもつて真正面から否定し、蹂躙しているからという人間の道徳感情からの反撥だけでもない。その加虐方法の徹底したあくどさ、陰惨さ、醜悪さに対して目を覆わんとする生理的な嫌悪感、不快感であつて、美にあこがれ、醜をしりぞける人間の自然的面すなわち本能に由来するものである。これを単に作者の空想であるからといつて一笑に付することはできない。それは、人間が、自然的面において欲求し、誘惑を感ずるところの性的刺戟とは、全く相反する方向をとるものであるし、性的刺戟に対して人間の精神的面から反撥する性的嫌悪感とは全く異質のものとみなければならない。ところで、作品が「徒らに性欲を興奮または刺戟せしめる」ものにあたるかどうかの判断は、事実認定の問題ではなく、裁判所が社会通念に従つてなすところの法的価値判断の問題であるけれども、作品の持つ性的刺戟の程度、存否については、これを審理に顕われた証拠によつて検証することは、無益でないばかりか、裁判所に、正常な社会人の良識という立場に立つ社会通念によつて客観的に判断すべきことが要求されるものである以上、無視しえないところと考える。よつて、審理に顕われた証言によつて本件訳書の読後感を検討すると、家庭の主婦であり、婦人団体の役員である証人田崎敏子(第三回公判調書中の供述記載)は、「私は、性的興奮は大して感じなかつたが、ああいう架空的な、いかにも醜悪な場面を、これでもかこれでもかと繰りひろげているあくどさに嫌悪を感じ、非常に陰惨な気持にとらわれて二度と読みたいと思わなかつた」と述べ、東京都立大森高等学校長である証人清水貞助(第三回公判調書中の供述記載)「私は、非常に嫌悪の念を催した。はじめ一寸読んで気持が悪くなつて止めたが、証言の日が迫つてきたので、とにかく義務上一応読んだ。恐ろしいことの書いてある本である」旨述べ、私立桐朋女子学園校長である証人生江義男(第四回公判調書中の供述記載)は、「本書の印象について言えば、私は、猥褻という言葉でいうのは、どうかと思う。エロというよりグロ的なものであつて、非常に具体的な繰り返し的な表現でこれでもか、これでもかというふうにやつている。グロというのは、人を殺したり、姙婦の腹をもんだり、そういうことである。このなかに繰り返されている性行為は少くとも日本人的なもの、いわゆる感覚的なものでないのではないか。非常に異質な感じを受けた」と供述し、保護司のほか、各種団体の役員である証人橋本政東(第四回公判調書中の供述記載)は、「本書を通読して全体を通じて、私どもが過去に学んできた徳性、倫理、人間の生活に全然合わないという感じを抱いた。この本は、性欲を刺戟することが、あるいはあるかと思うが、私はむしろ非常な嫌悪を感じた。いやらしいという感じである。正常な性生活を営む者にとつては、性生活の破壊のような感じを抱いた」と供述し、その他の多くの証人もほぼ異口同音に、本件訳書の殺人などの場面は、あまり残虐なので驚いたが、性的場面の描写からは、とくに刺戟を受けるようなことはなかつた趣旨の供述をしているのである。もとより、本件訳書の以上の如き描写から過度の性的興奮を覚え、またはかかる描写からでなければ殆んど性的興奮を感んじない一部の読者が存するであろうことも否定し難いところである。しかし、かような両極端に位する読者は、普通人の受ける性的刺戟を基準として判断すべき場合に、標準となりえないことは、すでに述べたとおりである。一般社会の普通人は、本件訳書の持つ残虐醜悪な雰囲気に圧倒され、過度な性的刺戟を受けることは殆んどないと認められるのであつて、この点において、本件訳書は、猥褻文書たるの要件を欠くものといわなければならない。そして、残酷醜悪な情景を描き、それが社会風教上いかに好ましくないものであるにせよ、これを理由として処罰する根拠は現行法上全く存しないのである。
(五) ところで、イギリス、ドイツその他の文明諸国においては、わが国と異り性的出版物に関する犯罪につき、読者の性欲を刺戟興奮させるかどうかという心理的効果の点を要件とせず、性的出版物が一般読者の健全な人格形成上あるいは社会一般の性道徳維持のうえから有害かどうかという観点から猥褻の概念を規定し、ないし解釈運用しているのが大勢であると思われる。いうまでもなく、性的出版物に関する刑罰法規は、性に関する道徳的秩序を維持することによつて、人間が他の動物と区別されるところの人間の精神的面すなわち人間の品位を保護しようとするものであるから、読者の性欲を過度に刺戟興奮させることは、その性的羞恥心を害し、人間の品位を傷つける最も主要な原因であるにちがいないが、もとよりこれに限られるものではない。性的刺戟を与えるような性質を有しないが、人間の品位をして反撥を感じさせ、その正常な性的羞恥心や性的道義観念を損う如き性的出版物は、世に存在するのであつて、本件訳書は、まさにかような性質のものといわなければならない。しかしながら、現行刑法第一七五条の解釈としては、過度の性的刺戟を伴う如き性質を有する性的出版物が、人間の本来的に持つ性的欲求に迎合しやすいため、社会の良識をもつてするも、その蔓延を阻止し難く、その性的道義観念に及ぼす有害な影響にかんがみ、刑罰をもつてその販売目的をもつてする所持を禁止すると同時に、この限度において可罰的違法性の一線を劃した趣旨と解するのが相当である。換言すれば、かかる性質を有しない性的出版物は、それが社会一般の風教上好ましくないものであるにせよ、社会の健全な良識によつて蔓延を妨げ、これを社会から遠ざけることが、比較的困難ではないから、あえて刑罰をもつて禁圧するまでもないということであつて、これは、刑法における謙抑主義的態度に根ざすものといわなければならない。まことに、前記最高裁判所の判例がいうように、刑法は「すべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない」のであつて、社会の良識を信頼し、法は、そこに多くのものを委ねているのである。それゆえ、当裁判所は社会一般の良識が、やがてその健全かつ自由な判断によつて、本件訳書の社会的価値ないし有用性の有無を判定し、妥当な社会的評価を与えるであろうことに多大の関心と期待を寄せざるをえない。そして、本件訳書が、心身の発達の未熟な青少年の手に渡ることは、甚だ寒心にたえないところであつて、当裁判所もまた深く危惧するところであるけれども、多くの文明諸国と異り青少年に悪影響を及ぼすおそれのある性的出版物および不良出版物に対し、何ら特別の立法措置を講ぜられていないわが国の現状では、これまた青少年の健全な育成について責任をもつ社会および個々の成員の良識ある取り扱にまつほかはないのである。
三、以上のような次第で、本件訳書は、これを全体としてみた場合、その内容が、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものと認められるにもかかわらず、性欲を徒らに刺戟または興奮せしめるものとは解されず、したがつて、刑法第一七五条にいう「猥褻ノ文書」に該当するものではないので、被告人両名が、これを販売し、または販売の目的をもつて所持した行為は罪とならないから、刑事訴訟法第三三六条により被告人両名に対し、いずれも無罪の言渡をすべきである。
よつて、主文のとおり判決する。
昭和三七年一〇月一六日
東京地方裁判所刑事第一八部
裁判長裁判官 鈴 木 重 光
裁判官 内 田 武 文
裁判官 橋 本 享 典